平成バブルはなぜ起きたのか?どんな過ちがあったのか?

未来を考えるために、過去を振り返る

2008年リーマンショックは、多くの企業に大きなダメージを与えました。

その直前まで、トヨタ自動車を初め自動車メーカーは非常に好調で、増産要請に応えるために、設備投資をした中小企業もありました。

しかし、あの好景気はアメリカの住宅価格上昇というバブルでした。

経済がグローバル化した今日、企業が設備投資の判断に、アメリカの住宅価格まで考えなければならない時代になってしまいました。

 

しかしこのような景気を経済ニュースや新聞から読むのは容易ではありません。

「日経新聞の一面は信用してはいけない。日経新聞は株を買ってもらうための新聞だから」という人もいるくらいです。

「201*年世界はこうなる!!」という本も、売れるためにあえて強調した内容で、外れていることが少なくありません。

(私は、201*年の予想した本を、201*年に読むのが好きです。そして大抵外れていました。)

 

未来は過去の延長線上にあります。

過去に起きたことを調べれば、未来に起きることは大まかには予測が可能です。

 

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っています。

 

歴史を振り返ることで、未来を考えてみたいと思います。

 

平成のバブル崩壊とは?

 

今に至る「失われた20年」の始まりとなった平成のバブルは、なぜ起こったのでしょうか。

 

これについては、いろいろな意見がありますが、どうもすっきりしなかったので調べてみました。

 

参考にしたのは、平成バブルの研究(上・下) 村松 岐夫、奥野 正寛 東洋経済新報社

 

 

 

平成バブルについて、発生の背景から、発生理由、そしてその時、政府や日銀がどう動いたか詳しく調査しています。

 

その結果、

・平成バブルは、突然発生したわけでなく、高度成長期から社会の転換のなかで、必然的に発生した。

・バブルが始まった時、政策の過ちがあった。

(景気を鎮めるべきところを逆に煽ってしまった。)

・バブルが崩壊した時、その処置に適切でなかった。

(直ちに公的資金を投入して金融の安定化を図るべきところを、先延ばししたために影響が長引いた)。

・これら不適切な処置の原因は、外国や財界、世論に影響され、政府や官僚が適切な対処ができなかったためだった。

つまり誰かが悪者といったものでなく、必然的に発生したものだったのです。

 

まず、バブル発生から崩壊までのプロセスを見てみます。

 

バブル発生の時代背景

バブルの以前の時代背景として、5つのポイントがあります。

 

1.貯蓄超過によるデフレの危険性

背景として、高度成長期の終焉があります。

高度成長期は、民間企業の投資が活発で、投資超過の状態でした。

その結果、国の経常収支は常に赤字で、外貨準備を維持するために通貨当局は金融引き締めを行っていました。

それが、1970年代に入ると、成長速度の低下と共に企業の投資が減少します。

対して家計の貯蓄は増え、貯蓄超過の状態になります。

この時点で需要不足によるデフレの危険が起きていました。

 

2.銀行はつぶれない、つぶさないという「護送船団行政」

当時銀行は、大蔵省の管理により護送船団行政で運営され、「絶対につぶれない」と多くの人が思っていました。

これには1965年の山一證券の破たんと日銀特融による救済も影響しています。

 

3.優良な貸出先の減少とリスクの多い貸出先の増加

この頃から証券市場が自由化され、企業が銀行の借り入れによる間接金融から、新株、社債発行による直接金融の比重を高めていました。

その結果、銀行は、優良な貸出先が減少し、リスクの多い貸出先への比重を高めざるを得ませんでした。

 

4.企業間の株式の持ち合いの増加

当時、外国から資本市場の国際的開放の要求が高まり、海外から買収されるのを防衛するため、金融機関や企業同士で積極的に株式の持ち合いがされていました。

 

5.終身雇用制維持のため経営の非効率な子会社の増加

また日本企業の特徴である終身雇用制は、増加する高齢社員の受け皿の為、子会社を増やしまし転籍させましたが、一方非効率な子会社の経営が問題になっていました。

 

バブルの発生から終息まで

では、このような背景のなかで、どのようなことが起こったのでしょうか。

以下、発生したことと、括弧内に政府が行ったことを記します。

 

1974年 第一次石油ショックが発生しました。

世界中で高いインフレと不況(スタグフレーション)が起きました。

(日本は、米独と協調して財政出勤による景気刺激を行いました。)

 

1979年 第二次石油ショック

すでに第一次石油ショックで省エネルギーの進め、石油価格の影響を受けにくい体質に転換していた日本は、この影響が最小限で済み、いち早く回復軌道に乗ります。

一方二度の石油ショックで大規模な財政拡張を行った結果、国債残高GDPの35.3%に達しました。

(国の大きな課題が財政再建でした。)

 

1980年代前半

日本は電機、自動車などの輸出が好調で好景気に沸きました。

一方米国は、石油ショックのインフレと高失業率に苦しんでいました。そこで金利を上げて金融引き締めによりインフレを鎮めるとともに、景気対策して財政拡張を行いました。(レーガノミクス)

その結果、ドル高、円安が定着し、これが日本の貿易黒字をさらに拡大し、米国議会から貿易不均衡の非難が日本に向けられました。

(政府は、貿易不均衡是正のため、規制緩和、輸入増加、内需拡大に取り組みます。)

オレンジや牛肉の輸入自由化がアメリカから叫ばれました。

 

1985年 ドルの信用低下を防ぎ、円高ドル安に導く、「プラザ合意」が先進5か国蔵相(G5)により決定されました。

 

1986年 急激な円高となり、円高不況が起きました。

(政府は不況対策として、財政出勤を行い、公共投資を増加しました。景気刺激のため公定歩合は低く抑えられました。)

 

ドル-円 為替レートの推移

ドル-円 為替レートの推移

この時点で異常の兆候に気付いた政治家もいました。

1986年頃、後藤田正晴氏は「M2(注 現金通貨と国内銀行等に預けられた預金を合計したもの)の伸びが2桁以上、にもかかわらず経済成長率が4%前後、物価上昇率が2%以下とは、どういうことだ。金融引き締めをやったらどうだ。」

このとき、すでにお金が株や土地に流れ始めていました。

 

1987年2月 低金利時代を迎え、貯蓄から投資への流れが加速しました。

(日銀は、景気刺激のため、公定歩合を過去最低の2.5%に引き下げました。)

 

1987年10月 世界同時株安(ブラックマンデー)が起きました。

日本ではNTT株の売却が行われ、株を買ったことのない人も株を始め、財テクブームが到来しました。

(政府は各国と協調して財政出勤を行い、景気の下支えを行いました。)

 

1988年 前年と変わり、各国は一転して金融引き締め策へ転換しました。

(日本は為替を安定させ、円高から円安に誘導するため、依然としてマネーサプライを増加しました。また、リゾート法が成立しました。)

増加したお金が株価を押し上げると共に、都市の宅地開発や地方のリゾート開発が地価の高騰を招きました。

一方で税収増により赤字国債はゼロになりました。

 

日本のGDPの成長

日本のGDPの成長

 

 

1989年 (日銀がようやく金融引き締めに転じました。)

 

1990年3月 (日銀が金融機関に対し、不動産融資の伸び率を制限する総量規制を実施しました。)

ところが住宅専門会社を対象から外したことから、その後も住宅専門会社が土地に融資を続けました。

これが後の住専問題となりました。

 

1990年8月 日銀が公定歩合を6%に引き上げ、金融引き締めに入りました。

 

1990年 年初から株価は下落し、円、債権、株のトリプル安となりました。

 

日本の株価の推移

日本の株価の推移

 

1991年3月 地価の下落が始まり、本格的にバブルが崩壊しました。

地価下落により多くの銀行の貸し出しは、担保の価値が半減し、不良債権化しました。

株価の大幅な下落により、株式を大量に保有する銀行は自己資本比率が大幅に低下しました。

(日銀は、1991年7月まで金融引き締めを継続し、景気悪化を助長しました。)

1992年 全国的に地価が下落し、多くの貸出先が不良債権化しました。大手銀行の不良債権の累計は8兆円と見積もられました。

 

平均地価の推移

平均地価の推移

 

経営の悪化した企業の中には、損失を別会社に計上させる飛ばしや粉飾決算が起きました。

大蔵省スキャンダル(過剰接待)がマスコミに取り上げられ、官僚に対する非難が激しくなりました。

不良債権により自己資本比率の低下した金融機関は、貸出先からの債権回収を急ぎ、金融機関の貸し渋り、貸しはがしによる企業倒産が起きました。

 

1993年3月 「国際業務を行う銀行の自己資本比率は、8%を超えていなくてはならない」という国際統一基準BIS規制の適用が開始されました。

大手銀行は自己資本比率を高めるため、債権回収を加速しました。

 

1993年の細川内閣、1994年の羽田内閣、1994年の村山内閣と政治的不安定が続きました。

 

1995年 (住専に6850億円の公的資金が投入されました。)

メディアは無謀な不動産融資をした住専への公的機資金投入を批判しましたが、実態は住専に融資した金融機関への救済策でした。

(この時の批判により及び腰となった政府はその後の銀行救済を先送りしました。)

 

1997年 (消費税を5%に増税し、景気の腰折れが生じました。)

日本の銀行の信用リスクが増加し、日本の銀行に対し金利が高くなるジャパンプレミアムが生じました。

 

1997年夏 アジア通貨危機が発生し、アジアでの投資が急速に減少し、アジアに多くの設備を輸出していた日本企業が大きな打撃を受けました。

 

1997年11月 三洋証券、北海道拓殖銀行が破たんし、山一證券が自主廃業しました。

大手証券会社は、山一證券が自主廃業し、山一證券が資金繰り支援を行っていた拓銀も連鎖破たんしました。

 

1998年 (長銀、日債銀が国有化されました。)

 

1998年7月 小渕内閣誕生

(財政緩和に舵をきり、国債の大量発行による景気刺激策を実施しました。)

 

結果的に、1992年から2000年までに27兆円公的資金が投入されました。

 

以上の結果から言えることは

1.バブルは高度成長から安定成長に移行する際、必然的に起きる。

2.日本のバブルは、加熱する景気を冷やすべき時に、円高など別の観点を重視したために、逆のことを行ってしまった。

3.「土地は値下がりしない」「銀行はつぶれない」という誤った認識のため、多くの人が無謀な行動に走った。

4.バブルが崩壊した時に、直ちに金融緩和を行い、景気を刺激すべきところ、しばらく金融引き締めを継続した。

5.経営不振の金融機関は、早急に公的資金を投入してでも金融を安定化すべきところ、その決定までに時間がかかりすぎた。

6.バブルの犯人捜しや無理な融資をした銀行への批判など感情的な議論が横行したことと、首相が毎年変わるなど政治が不安定なため、必要な決定が先延ばしになった。

 

以上、「平成バブルの研究(上・下)」を元に、バブルについてまとめました。

 

他にバブルについては、池上彰のやさしい経済学 「第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか?」にもわかりやすく書かれています。

 

2050年の未来について予測した記事は、こちらから参照いただけます。

 
 

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