本田宗一郎と藤沢武夫は、ホンダを世界企業に育てた名コンビでした。技術者の本田氏に対し、藤沢氏は「金のことは任せる」という言葉から、卓越した経営手腕を発揮します。彼は、4サイクルエンジンへの転換、巨額の設備投資、マン島TTレース参戦、そして「スーパーカブ」開発のきっかけを作り、本田氏の才能を引き出しました。藤沢氏は「ものづくりで稼ぐ」という信念を貫き、ホンダを世界的企業へと導いたのです。
20世紀の著名な経営者と言えば、名前が挙がるのが、松下幸之助、井深大、本田宗一郎氏です。
いずれも独力で会社を興し、世界的な企業に育てました。すでに皆さん他界されていて、私から見れば歴史上の人物に近いのですが。
今、日本企業の業績が苦しい中、彼らがいればという声も聞こえてきます。
そのホンダ、実は数々の名車を生み出したのは本田宗一郎氏ですが、ホンダという会社の組織を完成させたのは、実は副社長の藤沢武夫氏でした。本田宗一郎氏と藤沢武夫氏、たぐいまれなコンビとしてホンダという会社を世界企業に成長させたのです。
その藤沢武夫の自叙伝が「経営に終わりはない」です。
経営者藤沢武夫のすごさが伝わると共に、人と人との信頼関係のすばらしさが書かれています。
本田宗一郎との出会い
以下、「経営に終わりはない」より引用
私が本田宗一郎と最初に会ったとき、本田が
「金のことは任せる。交通手段と言うものは、形はどう変わろうと、永久になくならないものだ。
けれども、何を創り出すかということについては一切掣肘を受けたくない、おれは技術屋なんだから」
中略
そこで私は答えました。
「それじゃあお金のほうは私が引き受けよう。ただ今いくら儲かるというような計算はまだない。
基礎になる方向が定まれば、何年か先に利益になるかもしれないけれど、これはわからない。
機械が欲しいとか何がしたいということについては、一番仕事のしやすい方法を私が講じましょう。
あなたは社長なんだから、私はあなたのいうことは守ります。
ただし、近視眼的にものを見ないようにしましょう。」
「それはそうだ。おたがいに近視眼的な見方はしたくないね」
と本田もうなずきました。
「わかりました。それでは私にやらせてくれますか」
「頼む」
というわけで三分か五分で話は決まりました。
引用終わり
この短い会話で二人の25年の経営者としての共同作業が始まりました。そして藤沢氏は工場や製品には口を出さなかったが、転機となる場面では見事に本田宗一郎氏が力を発揮するように仕向けます。
つまり藤沢氏がおぜん立てした舞台で、本田宗一郎氏はその才能をいかんなく発揮してきたのです。
面白いことに、藤沢氏は免許を持たず、自分でオートバイはおろか、自動車も終生運転しませんでした。
しかし、商品に対する鋭い洞察と先を読む力で、驚くほど大胆な経営を行っていきました。
独自の販売網を構築
昭和25年ホンダは自転車に取り付ける小さなエンジン(2サイクル)を量産して、事業を軌道に乗せます。そして藤沢氏は販売網づくりに精力を傾けます。
しかし2サイクルのオートバイに疑問を感じていた藤沢氏は「4サイクルに転換した方がよい」と繰り返し本田氏に言っていました。
ある日、本田氏に工場に呼ばれた藤沢氏は、製図台の上にある一枚の図面を見せられます。
「これでもう大丈夫だよ。ホンダはこれで、たいへんな勢いで伸びるよ」
本田宗一郎氏が指した図面に書かれていたのは、エンジンとミッションが一体となった4サイクル・オーバーヘッドバルブエンジンでした。当時トヨタ、日産を始めフォード、GMなどの自動車メーカーが採用していたのはサイドバルブ・エンジンでした。オーバーヘッドバルブエンジンが広く採用されるようになったのは、それから10年ほどたってからでした。
藤沢氏は免許も持たず、自分で運転することは終生ありませんでしたが、4サイクルの将来性を見極め、的確なアドバイスにより、本田宗一郎氏が素晴らしい仕事をするきっかけをつくつたのでした。
こうして4サイクルのドリーム号がヒットした昭和28年4月、ホンダは生産が急上昇しました。
トヨタ、日産と並ぶ設備投資
そこで藤沢氏は思い切った手を打ちます。
資本金6千万円のホンダが1年で15億円という巨額の設備投資をしたのです。将来を見据えて、生産能力の大幅な増強を図ったのでした。これは当時のトヨタ、日産と並ぶほどの巨額の投資でした。
こういった大胆な経営判断ができるところに藤沢氏の経営者としてのすごさを感じます。
業績の急激な悪化
ところが翌昭和29年あれほど好調だった売れ行きがパッタリ止まってしまいました。
原因は様々でした。
自転車取り付ける人気商品のカブ号は他社との激しい競争状態になっていました。さらに新たに発売したスクーター・ジュノウの販売不振、そして220ccにパワーアップしたドリーム号のトラブルによるクレームでした。
資金繰りは切迫し、6月10日の手形を落とせなければ倒産する状況でした。藤沢氏は、工場に生産調整を指示し、取引先にも減産を説明する一方、資金繰りに奔走し、かろうじて倒産を食い止めました。
マン島TTレースへの参戦
倒産は免れたものの、生産調整で工場の士気は上がりません。
そこで藤沢氏が思いついたのが、マン島TTレース参戦です。
当時は最高格式のグランプリレース、そこでは当時最先端の欧米メーカーが激しく争っていました。
そこにやっと200CCのオートバイを量産できるようになったホンダが参戦しようというのです。高校生がプロ野球に挑戦するようなものです。
これに挑戦するようにしたのも藤沢氏でした。
そして、藤沢氏が用意した舞台に本田宗一郎氏はじめ社員一丸で取り組みました。そして優勝は夢と思われていたマン島TTレース、なんと5年後には1位から5位までを独占しました。そのエンジンは4ストローク2気筒DOHC125CC、まだヨーロッパでは、日本がどこの国か知らない人が多かった1959年の話です。見知らぬ国から来た東洋人が持ってきた精密なエンジンに「まるで時計のようなエンジン」と彼らは驚愕しました。
そしてその後ホンダは、マン島だけでなく世界グランプリシーンを席巻したのです。
鈴鹿サーキットの建設
その一方で、日本には高速道路もまだなく、高速でテストできる環境すらありませんでした。
たまたま、マン島レースから帰ってきたメンバーと一杯飲んでいた藤沢氏は、
「どうだい、外国のレース場のようなものを日本にもつくらないか」
このひとことで、鈴鹿サーキットの建設が決まりました。
こうして作られた日本で初めての国際格式のレーシングコースである鈴鹿サーキットは、二輪、四輪メーカーの貴重な実験場ともなり、オートバイや車の高速性能の向上に非常な貢献をしました。
また現在でも多くの国際レースやモータースポーツが開催され、高速から低速まで様々なコーナーを持つ鈴鹿サーキットは、安全でしかも高い技術が必要なコースとして数々の名勝負が繰り広げられています。
あの当時、1民間企業が国際格式のサーキットをつくる、その発想のスケールの大きさに驚きます。
スーパーカブの開発
そして昭和31年藤沢氏は本田宗一郎氏とヨーロッパへ旅行した時、本田宗一郎氏に何度も言いました。
以下、「経営に終わりはない」より引用
「カブ号のように自転車に取り付けるものじゃ、もうだめだ。
ボディぐるみのものを考えてくれないか。
どうしても50ccだ。底辺の広い、小さな商品をつくってくれ。
底辺が広がらない限り、うちの将来はないよ。」
「そんなこといっても、50ccで乗れる車なんかつくれるものか」
そう本田はいう。
その頃のヨーロッパ線は南回りだけで、しかも“各駅停車”ですから、72時間もかかった。
そこで、目が覚めると私は50ccの話をもちかける。
しまいには、本田もうるさがる。
しかし、私はここで引き退ってしまってはしょうがないので、しつこく粘りました。
ドイツでは、クライドラー、イタリアではランブレッタとかを見てまわりました。
みな当時、有名なオートバイメーカーです。
やはり50CCのことが気になったとみえて、それらしきものがあると、
「これはどうだい?」って聞く。
「こんなのは、だめだ」
「これは?」
「だめだ」
「これは?」
「こんなのつくったって、どうしようもない」
「ないじゃないか」
「ないからつくってくれといってるんだ。こんなものじゃだめだよ。すぐに売れなくなっちまう」
というような問答をしているうちに、本田は私の欲しがっているもののイメージを理解していったようです。
帰国してから一年ほど経った頃でした。
「おい、ちょっと研究所まで来てくれ」と、本田から電話があったんです。
さっそく出かけていくと、スマートなモペットの模型ができている。
「うん、これなら売れる。ぜったい売れる」
見たとたんに、私はそういいました。
「どのくらい売れる?」
「うん。……まあ、月三万台だよ」
「ええっ!」
社長だけでなく、居合わせた研究所員がみんなおどろいてしまった。
そりゃ、そうです。
その頃、ドリーム号とベンリイ号を合わせて月六、七千台、日本全国の二輪車販売台数が二万台くらいでした。
だから、月三万台と聞くと、すっかり開発に馬力がかかってしまった。
引用ここまで
今の会話でわかると思いますが、普通はこのように開発できません。
経営者が市場にないものをつくれとは、なかなか言えないのです。
ところが藤沢氏は、自らはアイデアは出さずに、ヨーロッパで見るモペットにひたすらダメ出しをします。
こうして本田宗一郎氏の頭の中に革新的な製品のイメージが湧いてきたのです。
藤沢氏は本田宗一郎氏にスーパーカブというイノベーションを導き出させたのです。そして藤沢氏は、月三万台を達成するために、新たに60億円かけて鈴鹿工場を建設しました。そして昭和35年には、月六万台を達成しました。
このスーパーカブは爆発的にヒットし、現在も生産が続けられています。
2014年3月時点で、累計生産台数8700万台に達しました。世界で最も多く生産された乗り物として、今後も抜かれることはないでしょう。
このスーパーカブの大ヒットにより、ホンダは四輪車生産に向けて資金を蓄えることができました。
メーカーとしての矜持
そんな藤沢氏が稼ぐということに関して、以下のように語っています。
以下、「経営に終わりはない」より引用
生産企業では、つくっている商品で儲けているということで、技術者にしても、現場の人たちにしても誇りを持つことができる。
おれたちが一生懸命働いているから会社が成り立っているんだということです。
ところが、ある特定の一人、二人が為替をいじって、五千万とか一億円儲けたとします。
すると、営々と働いて三千万円の利益しかあげられない多くの人たちは、為替の大儲けに決していい感じは持たないだろうと私は思います。
物をつくる会社に働いている物をつくる人たちは、自分たちの働きが、あるひとつの知恵による稼ぎよりも劣ったものでしかないと思ったときに、
寂しさを感じて、情熱を失ってしまうだろうと思う。
ホンダは物をつくる会社なのです。
ですから、どんなに儲かる話があっても、その話には乗らない。
儲けるならみんなの働きで儲けるんだということをホンダの金科玉条にした。
引用ここまで
藤沢氏はものをつくる人への尊敬、大切に思う気持ちを持った経営者でした。
だから、ものをつくらないでお金を稼ぐことを厳しく諌めました。
この信念、我々日本人が大切にすべきではないでしょうか。
その後、成長軌道に乗ったホンダ、藤沢氏にはとても大きな課題がありました。
これについては、後編でお伝えします。
後編は、こちらから参照いただけます。
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