『生まれ』か『育ち』か、若者育成の課題

世界最高水準のメジャーリーグで165キロのストレートで三振を奪い、その裏で137メートルの特大ホームランを放つ。どちらか一つでも大変なことを一人でやってしまうのが大谷翔平選手。それは天賦の才と誰もが思ってしまいます。まあ身長や体格は本人の努力ではどうにもならない点はあります。

では将棋の藤井聡太棋士はどうでしょうか。中学生が並み居る大人の有段者に破竹の連勝を重ねると「天才だ」と思ってしまいます。
 

一方、育児書には「人は誰もが無垢の心で生まれ、その後の育て方で全てが決まる」と書かれています。そうなると子供が社会で成功しなかったのは親の育て方が悪かったことになります。

この生まれた時、「心は空白の石板(Blank Straight)」という概念は、ユダヤ・キリスト教の基本的な考え方です。(ちなみに世論調査でもアメリカで聖書の創成記を信じている人は76%、聖書に書かれている奇跡は実際にあったと信じている人が79%、自分は死後も何らかのかたちで存在するという人が67%を占めています。対してダーウィンの進化論を信じている人は15%しかいません。)
 

この「生まれか、育ちか」の問題にジュディス・リッチ・ハリス氏は、1998年に出版した「子育ての大誤解」で従来の定説をくつがえし、子育てにおける親の役割が限定的であることを述べて大きな議論を巻き起こしました。その一方、「ブランク・ストレート説」を信じている人たちも、大谷翔平選手や藤井聡太棋士の能力は天賦の才と考えます。また黒人は白人に比べIQが低いと信じている人も多くいます。この生まれか、育ちかについて考え、若者たちを育成する真の方法について考えます。
 

「生まれ」派の主張

進化論から行動遺伝学へ

ダーウィンが、『種の起源』を出版したことに刺激を受け、いとこフランシス・ゴルトンは遺伝の問題を統計学で解決しようと思い立ち、こころが遺伝や環境によってどのように影響されるのかを明らかにする行動遺伝学を創設しました。具体的にはすべてのDNAを共有する一卵性双生児の違いを比較しました。

行動遺伝学に照らすと、母と子どもの幼児期の関係が将来に決定的な影響を与えるという心理学の考え方は疑わしいです。2000年にバージニア大学出身の心理学者エリック・タークハイマー氏が発表した「3原則」では
第1原則 ヒトの行動特性はすべて遺伝的である
第2原則 同じ家族で育てられた影響は遺伝子の影響より小さい
第3原則 複雑なヒトの行動特性のばらつきのかなりの部分が遺伝子や家族では説明できない
と、示されています。
 

行動遺伝学では心を「遺伝+共有環境+非共有環境」で説明しています。共有環境は「家族が共有し、家族のメンバーに類似性をもたらす」環境で、非共有環境は「家族で共有せず一人ひとりを独自にさせる」環境です。遺伝とともに個性を生み出すとされています。

ここでは、思考・学習・感情の潜在力は「すべて」受精卵のDNAの情報に含まれるとしています。その根拠として、統合失調症(精神分裂病)、自閉症、言語障害、双極性障害など認知や情動に関する障害は、二卵性双生児よりも一卵性双生児の方が、子供が二人とも障害になる確率が高いからです。

また一卵性双生児は考え方や感じ方がよく似ており、生まれて直後に引き離され別々の環境で育った一卵性双生児を成人してから対面調査すると、話し方やしぐさ、嗜好も同じだったという結果があります。
 

人間の本性

ハーバード大学心理学教授スティーブン・ピンカーは行動遺伝学の視点から、人間の本性に存在する暴力性、攻撃性を指摘し、心は空白の石板であるという「ブランク・ストレート説」に強く反対しました。

生物進化の観点から、人間の心理を考える進化心理学を考えてみます。
人間の祖先であるチンパンジーは極めて好戦的で、他のグループのオスを襲いなぶり殺します。一方、未開の地に住む狩猟採集民族は「高貴な野蛮人」というイメージに反して実際は極めて好戦的で、民族間戦争での男性の死亡率がとても高いことで知られています。

人類学者キャロル・エンバーによれば狩猟採集社会の90%は戦争を経験しており、64%は2年に一度戦争をしています。それも儀式的でなく、できれば相手を皆殺しにし、捕虜を拷問し、戦勝の記念に相手の体の一部を切り取ったり食べたりするものです。
「私たち人間の本性の中でも、動物の先駆者から最も直接的に受け継いでいる本性が、集団殺戮=ジェノサイドのです」と、アメリカ合衆国の進化生物学者であるジャレド・ダイアモンド氏はこう述べています。
 

これは現代人には引き継がれていないのでしょうか。1954年オクラホマ州立大学の研究チームが、22人の少年を2つのグループに分け、1週間は別々に行動させ、その後別のグループの存在を知らせます。すると少年たちは相手のグループとの直接対決を望みました。グループ対抗の競技を行うと少年たちは敵愾心を燃やし、競技をして負けると真剣に悔しがりました。さらに負けたチームが勝ったチームのキャビンを襲いました。こうして競技中の中傷合戦から殴り合い、さらに石の投げ合いと本格的な抗争に発展しました。
 

統合失調症などの精神障害が遺伝子の作用で避けられないものとすれば、一部の異常な行動(サイコパス)も同様なのでしょうか。彼らは、外観上は普通ですが、著しい罪悪感の欠如、衝動的、虚言癖などがあります。

1970年代、殺人犯の本を執筆中のノーマン・メイラーは、アボットという殺人犯の手記から、彼は知的で優れた作家、思想家だと判定して仮釈放を申請しました。アボットは文学関係のテレビのインタビューを受けるような知的な人物でしたが、2週間後にウェイターと口論になりウェイターを刺し殺してしまいました。サイコパスは知的に優れ、魅力的な場合もあり、このように知識人が騙される例もあります。

コメディアンであるリチャード・プライヤーは、アリゾナ州刑務所で殺人を犯した犯罪者に対し、「なぜその家にいた人を皆殺しにしたのか」と尋ねたところ、「家にいたから」という答えが返ってきました。
「自分でもどうにもならないんだ。でも2年たったら仮出所できる」……
暴力傾向のある人は、衝動的で多動、知能が低く注意欠陥で更に反抗的な気質がありますが、サイコバスは酷薄で良心を持たず、特徴が低年齢で現れて生涯続くことや、多分に遺伝的であると分かっています。
 

アメリカ南部は暴力の発生率が高い

ミシガン大学で心理学の実験が行われました。スタッフが廊下で、キャビネットの引き出しを開けてファイルを整理しているところを被験者が通ります。その直後、スタッフが「ばかやろう」低くつぶやくと、北部出身の学生は笑って済ませましたが、南部出身の学生は顔色を変えました。検査するとストレスホルモン(コルチゾル)の値が上昇していました。
 

知能の数値化

1869年フランシス・ゴルトンは「遺伝的天才」で、才能豊かな人は生物学的にすぐれた性質に「生まれついた」にすぎないと主張しました。しかし当時はこの優れた性質を計測する方法がありませんでした。

1904年イギリスの心理学者スピアマンは、様々な知的能力として一般的能力(g : general intelligence)が存在するとし、これを様々な種類の検査を組み合わせれば検出可能と考えました。このgは先天的に決定され、訓練によって引き上げることはできないと考えました。

1916年スタンフォード大学のルイス・ターマンはgを検査することで生まれつきの知能IQを測定できるツールを考案しました。現在は児童用知能検査「WISC」と成人用知能検査「WAIS」が広く用いられています。児童用知能検査WISCではIQテスト結果の精神年齢を実年齢で割って計算します。例えば10歳の子が12歳相当の結果であれば、12/10×100=120となり、8歳相当の年齢であれば8/10×100=80となります。アメリカではIQ100であれば普通の高校を卒業し、115であれば大学を卒業後よりよい職に就き、85であれば高校を中退する可能性が高い、と判断されます。
 

表 成人用知能検査「WAIS」

群指数 下位検査 内容
全検査IQ 言語性検査 言語理解 知識 学校で習うような人名・地理・古典・歴史など
例)「日本の首都はどこですか?」
類似 2つ以上の物事・概念の間に存在する類似性について
例)「りんごと梨はどのようなところが似ていますか?」
単語 単語や語彙の豊富さを問う
例)「ギターとはなんですか?」
理解 社会や経済の常識や日常生活の知識
例)「一石二鳥という諺はどのような意味ですか?」
作動記録 算数 基礎的な計算問題
例)「1ドルで45セント切手を何枚買えますか?」
数唱 数字列を記憶して、出された指示に従い数字を答える
順唱例)「1-2-3」、逆唱例)「3-2-1」
語音整列 読み上げられる数字と仮名の組み合わせを聞き、
数字を昇順に、仮名を五十音順に並べる
動作性検査 知覚統合 積木模様 積木で手本通りの模様を作る
行列推理 行列の欠けた部分に当てはまる選択肢を選ぶ
絵画完成 不完全な絵画の欠如部分を指摘する
処理速度 符号 記号とセットになっている数字を記憶して、
数字に合った記号を選択する
記号探し 記号グループの中に見本と同じ記号があるか判断する
絵画配列 時間的連続性と物語的相関性を持つ複数の絵画を正しく並べ替える
組み合わせ 複数の紙片を利用してひとつの意味のある形態や模様を作り出す

表のWAIS-Ⅲは1997年に発表された。全検査IQは言語性IQと動作性IQの合計で表され、それぞれ群指数と呼ばれるカテゴリがある。
絵画配列、組合せはどの群指数にも含まれない。

 

このIQテストは2種類の知能を測定できます。

  • 流動性知能
  • 抽象的な問題を解く能力で、記憶、注意、抑制などの能力が求められる

  • 結晶性知能

主に知識
 

流動性知能は20代をピークに下降するのに対し、結晶性知能はかなり年を取るまで上昇します。結果的にIQは言語能力、論理=数学能力、空間的能力を測定するのみで、創造性や感情的知能は測定されません。

このIQスコアの測定は陸軍が徴兵検査に活用するなど、アメリカ社会で広く使用されました。これにより知能は努力で勝ちえたものでなく、天から与えられたものになりました。実際は、IQは辺境の地など文化的に孤立した地域では低い結果が出ます。IQは環境が要求すれば上昇します。
 

一方、1981年ニュージーランドの心理学者ジェームズ・フリンは、100年以上にわたり測定されたIQスコアを調査したところ、数値が年々上昇し、10年毎に3ポイント上昇していると発見しました。これをフリン効果と呼びます。

実はIQスコアの特定の分野だけが上昇していました。一般知識や数学は差がありませんでしたが、抽象的論理の分野では著しく向上していました。1900年当時、人々は目の前の具体的な問題解決が大半で抽象的な概念を扱う経験がありませんでしたが、今日では様々な理論が一般人にもなじみ、抽象的な概念を取扱うことが増えたためと考えられます。
 

優生思想

こういった知能、認知、情動が遺伝で決まるのであれば、最初から危険な因子を持った人物を排除すれば安全な社会が実現できる、という思想を優生思想と呼びます。IQが遺伝的であれば、高いIQの遺伝子を優先的に育成し、低いIQの遺伝子を除外すれば良いのではないか、と優生思想では考えられますが、それを実際に調査した人物がいます。

1920年代アメリカの心理学者ルイス・ターマンは、IQの高い子供たちを調査する「天才遺伝子研究」を行いました。結果、IQの高い子供たちの集団からノーベル賞受賞者は一人も出ず、調査対象者のうちターマンに集団に入る資格がないとされた二人がノーベル賞を受賞しました。
 

親よりも仲間

ジュディス・リッチ・ハリスは著書「子育ての大誤解」の中で親は重要でないと述べ、大論争を巻き起こしました。アメリカへ移民してきた両親から生まれた子供は、日常生活を送る学校や遊び友達との会話を英語で行います。それにより英語の力はぐんぐん上達しますが、家庭の中でしか話さない母国語の力は伸びません。中国からアメリカに移民した両親の子供は、中国語を話すことができても、漢字を知らないため字を書けません。
 

ではチンパンジーのように知能の高い生物を人間と同じように教育すれば、人間のように話すことができるのでしょうか。

1931年心理学者ウィンスロップ・ケロッグ教授は、自分の息子ドナルド10か月とグァという10か月のチンパンジーを分け隔てなく育てました。グァは洋服を着て、幼児用の食器を使い、人間の幼児の生活に順応しました。二人は本当の兄弟のように仲良く育ちました。むしろ様々な動作の理解はグァの方が早く、ドナルドは人のマネをするのが優れていました。新しいおもちゃや遊び方を見つけるのはいつもグァで、それをドナルドはマネをしていました。ドナルドはチンパンジー語をいくつか覚えましたが、19か月の人間の子供なら50以上の単語を発するはずが、覚えたのはたった3語でした。チンパンジーを訓練して人間のように育てるつもりが、チンパンジーが息子をサルのように調教してしまった結果となりました。
 

図1 チンパンジーの子供のように…?

図1 チンパンジーの子供のように…?

人間の赤ちゃんにあってチンパンジーにないもの、それは心理学者が「心の理論」と呼ぶものでした。他者との関係性、共感する力、これらは多くの子供の場合、母親との関係により構築されます。
 

子育て神話の誤り

核家族で子供は両親の元で愛情豊かに育てられるというのはごく最近の感覚で、かつては親の死が頻繁にありえました。今はシングルマザーの家庭や離婚が頻繁にあります。子供は、家庭での文化よりも仲間同士の価値観に従い、仲間同士の中で最適な行動をとるようになりました。それが社会のルールに逸脱していても。
 

社会化は大人が子供に施すものでなく、子供たちが自分自身に施すものです。しかし、人の本性に関するものや、認知、判断の個性は遺伝によるものがあり、これは避けることができません。

これまで人類が生き延びてきたのは、仲間との集団行動があったからで、その集団内では自分の利益よりも時として他者の利益を優先する利他的な行動を取ってきました。そしてこの集団にとって最大の脅威は他の野生動物でなく、他の人間の集団でした。
 

「育ち」派の主張

遺伝子の影響は限定的

遺伝子はタンパク質の生成を命令するもので、遺伝子の指示により様々なたんぱく質がつくられます。では、同じたんぱく質であれば同じ人間、同じ性質が生まれるかというと、そうではありません。同じ材料でケーキを作っても調理方法が違えば全く別のケーキになってしまいます。
 

最近の研究では、遺伝子は2万2千個のボリュームつまみと電源スイッチのようなものだと分かっています。他の遺伝子や環境からの働きかけにより、いつでもボリュームは上下し、スイッチはオンオフします。この遺伝子と環境の相互作用は「G(gene)×E(environment)」プロセスと呼ばれます。

例えば、身長は遺伝子の影響を強く受けますが、環境の影響も大きいとされています。1957年スタンフォード大学のウィリアム・ウォルター・グルーリックは、同じ時期にカリフォルニア州で育った日本人の子供と日本で育った日本人の子供の身長を計測し、比較しました。すると、カリフォルニア州で育った子供の方が、平均身長が5インチ(約13センチ)高かったことを発見しました。遺伝子は外部の世界と交互作用を行い、唯一無二の結果を生み出しています。
 

藤井聡太棋士をつくる

スポーツは体の条件があるため、小さなときから英才教育をしてもトップレベルになるとは限らないですが、スポーツ以外なら小さなときから英才教育をすれば、トップレベルになることができるのでしょうか。
 

どんな子供でも正しい育て方をすれば天才になれるという結論に至ったハンガリーの心理学者ラズロ・ポルガーは、3人の娘をチェスのトッププレイヤーにすることに挑戦しました。十分な時間をチェスに充てるため、子供たちは学校通わせず、自宅で教育しました。しかし、いきなりハードな特訓をしたわけでなく、最初は子供の周りにチェス盤や駒があり、子供が興味を持って触れるようにしました。

その後、簡単なルールを教えて最初は親が遊び相手になりました。徐々に本格的な練習に移行し、5歳の時には熱心な練習をすでに数百時間行っていました。そこで子供に自己規律、努力、成果を大切にすることを教えました。3人の子供たちは熱心に練習しましたが、それは同時に楽しみでもあったとのちに述べています。「チェス盤を前にとても長い時間を過ごしましたが、とても好きだったので課題とは思いませんでした。」
 

その結果、長女スーザンは、4歳でトーナメントに初勝利、15歳で女性チェス世界ランク1位、その後女性プレイヤーとして初めてグランドマスターになりました。
次女ソフィアも女性チェスプレイヤーの世界ランキングで6位になりました。
三女ユディットは、15歳で当時世界最年少のグランドマスターになり、以降今日に至るまで女性チェスプレイヤーの世界ランク1位を獲得し続けています。
 

図2 ユディット・ボルカ― (Wikipediaより)

図2 ユディット・ボルカ― (Wikipediaより)


 

黒人は本当に頭が悪いのか?

心理学者リチャード・ヘアンシュタインと政治学者のチャールズ・マレーは、著書「The Bell Curve」の中で、遺伝により黒人のIQは白人よりも低いと主張しました。こういった遺伝論者の根拠は黒人と白人の脳の大きさの違いなどを引き合いに出しますが、いずれも間接的な証拠で決定的なものはありません。しかしこういった見解はアメリカ社会で差別を助長しており、求人に対しても白人なら採用されるが、黒人は採用されないことは珍しくありません。
 

黒人のIQが低い原因は、経済的に恵まれず十分な教育を受けさせられないことや、両親も十分な教育を受けていないため教育の価値が分からない、黒人家庭の所得は白人家庭の67%、資産は12%にすぎず、経済的なリスクにさらされている点などが挙げられます。また黒人の子供たちのコミュニティでは勉強ができることは白人のようで「かっこ悪い」ことであり、勉強ができる子も努力しなくなってしまいます。
 

対して中国や韓国などアジア系のアメリカ人の子供はSAT(大学能力評価試験)の成績が高く、白人と比べ同じ程度のIQでもアジア人の子供の方がSATのスコアは高い結果でした。これは、中国が2000年以上の歴史のある科挙の試験など伝統的に学力を重視する文化と、努力することを重視する価値観があり、良い成績は勉強の結果と考えることが影響しています。対してヨーロッパ系アメリカ人は、成績は生まれ持った才能や良い教師に恵まれることだと考えています。
 

努力は身体さえも変える

ロンドンでタクシー運転手の免許を取得するためには複雑に入り組んだロンドンの道路を全て把握しなければならず、世界一難しい試験ともいわれています。さら道路を知っているだけではだめで、目的地まで最も効率よく行ける道順を見つけなければなりません。その結果、ロンドンのタクシー運転手は膨大な記憶量と運転技術が求められます。

2000年にロンドン大学の神経科学者イレーナ・マグワイヤーの研究によると、タクシー運転手16人の脳をMRIで測定した結果、記憶をつかさどる海馬の部分が他の人に比べて大きくなっていることが判明しました。アスリートがトレーニングで筋肉を増やすように、ロンドンのタクシー運転手はトレーニングで脳の一部を増やしていたことになります。
 

図3 ロンドンのタクシー (Wikipediaより)

図3 ロンドンのタクシー (Wikipediaより)


 

これは、身体にはホメオスタシス(恒常性)があり、体に負荷がかかってバランスが崩れれば、それを元に戻そうと各機関が働くからと考えられています。いつもと違う激しい負荷がかかれば、これまでのシステムでは対応できず普段とは違う遺伝子を招集します。この遺伝子は負荷のかかった事態に適合するために、細胞内の様々なスイッチを入れたり切ったりします。こうして新たな状態に適合するからだがつくられます。
 

1万時間の真実

フロリダ州立大学教授アンダース・エリクソンは、ベルリン芸術大学の生徒の中から、Sランク、Aランク、Bランクの生徒各10人の7日間の日常を調査し、練習時間の違いを調べました。3つのグループとも個人練習を重要と考えていて、練習は非常に消耗するため十分な睡眠を取っていました。唯一の違いは、一人の練習時間の合計時間でした。

18歳までの練習時間の合計はAランクの学生5300時間に対してSランクの学生は7410時間でした。特に差が大きかったのは、勉強や友達との遊びなどやりたいことが多い8歳から12歳までの期間でした。一方、ベルリンフィルで活躍する中年のバイオリニストも18歳になるまでに平均7336時間、Sランクの学生と同等の練習をしていました。
 

2008年マルコム・グラッドウェルが「天才!成功する人々の法則」で達人の域に達するには1万時間の練習が必要という「1万時間の法則」を述べました。1万時間はある程度正しいのですが、漫然と1万時間練習しても達人の域に達しません。具体的な目標に向けた限界的練習でなければならないとされています。
 

1万時間の練習で得られる知識

1996年2月10日チェスの世界チャンピオン ガルリ・カスパロフとIBMのコンピューター ディープ・ブルーが対戦し、3勝1敗2引き分けで勝利しました。毎秒1億手以上計算するコンピューターが3手先までしか読めないカスパロフに敗北したことになり、「人類の頭脳は最強のコンピューターに勝利した」と報道されました。ディープ・ブルーは毎秒1億手以上計算する「才能」はありましたが、チェスの達人が持っていた知識、様々な局面でどのような手を打つのか、攻めと守りのバランスなどの戦術や戦略がありませんでした。
 

図4 ガルリ・カスパロフ (Wikipediaより)

図4 ガルリ・カスパロフ (Wikipediaより)


 

1997年5月3日カスパロフとディープ・ブルーは再び対戦しました。結果は1勝2敗3引き分けで、僅差でしたが初めて人類はコンピューターに敗北した日となりました。前回と違いディープ・ブルーには強い味方がいました。チェスのグランドマスター ジョエル・ベンジャミンがディープ・ブルーに過去100年のグランドマスターたちのプレーなど膨大なデータベースを教えたためでした。
 

目的を持った練習

自分の能力を高めるためには練習を漫然と行っていては効果がありません。明確な目的をもって集中して行う「目的のある練習」が必要になります。
はっきりとした具体的な目標は以下の3点が挙げられます。

  • 短時間で集中する
  • 結果に対するフィードバックは必ず行う
  • 居心地の良い領域(コンフォートゾーン)から飛び出す

 

はっきりとした具体的な目標とは

1回の練習ごとに計測できる具体的な目標を設定します。さらにその目標を達成する練習は、集中できるように部分部分に分解して行います。

  • 短時間で集中する
  • 長時間は集中できない、集中するためには時間を区切る
  • 結果に対するフィードバックは必ず行う

などを意識的に行います。
どこができていいて、どこができていなかったのか、具体的なフィードバックを受けて修正しなくてはいけません。
 

居心地の良い領域(コンフォートゾーン)から飛び出すこと

自分ができるレベルで繰り返し行っても技術は向上しません。むしろ下手になっている可能性があります。ギリギリでできない程度の厳しい練習を行い、自らコンフォートゾーンから脱出しなければ、次のレベルに達することはできません。
 

壁に当たったら

別の方向から攻めてみましょう。この時、コーチや指導者の存在が役に立ちます。本人では気づかない別のアプローチを指摘してもらえます。
バイオリン教師のドロシー・ディレイは、教え子が音楽祭で演奏する曲をもっと速く弾きたいと言った時にメトロノームを用意しました。最初はメトロノームを生徒が十分弾けるペースにセットしますが、徐々にメトロノームのスピードを上げていき、生徒が完璧に弾きこなしたらさらにスピードを上げて、目標のスピードを実現させました。
 

実践的な訓練「トップガン」

1968年ベトナム戦争で、海軍はミグ戦闘機を乗りこなす北ベトナム軍のパイロットとのドッグファイトを繰り広げましたが、結果は芳しくありませんでした。ミグ戦闘機2機を打ち落とすのに自軍の戦闘機を1機失っていたからです。
 

対策のため、海軍戦闘機戦術教育プログラム通称「トップガン」が開始され、各部隊の優秀な戦闘機乗りを訓練生として招集しました。教官として海軍のトップパイロットが配属され、対戦相手のミグ戦闘機役を務めました。訓練はミサイルや銃弾を発射しない点以外は実戦さながらの激しいドッグファイトでした。
 

図5 戦闘機訓練

図5 戦闘機訓練


 

当初、訓練生は教官にコテンパンにやられてしまいます。空から降りた後、教官は訓練生に「飛んでいる時に何に気づいたのか」「その時どうしたのか」「他にどんな選択肢があったのか」などと質問をして、時にはフィルムやレーダーの記録を使ってドッグファイトで起きたことを説明しました。そして「どこを変えればいいか、どんなことを考えるべきか」アドバイスをしました。
 

こうしてドッグファイトの課題に気づいた訓練生は、質問を投げかけることで教えられたことが自然に身に付き、翌日の訓練に反映できるようになります。繰り返すうちに、自らで状況に的確に対応できるようになっていきました。この訓練生が戦争の舞台に戻り、更に部下のパイロットを訓練することで、終戦直前には自軍の戦闘機1機失うのに対しミグ戦闘機12.5機を打ち落とすまでになりました。対してトップガンの訓練をしなかった空軍の戦果は、依然として奮わないままでした。
 

スポーツでの目的性訓練

卓球の全英チャンピオンでシドニーオリンピックにも出場したマシュー・サイドは、19歳の時、近くに越してきた中国の優れた卓球選手「陳新華」のコーチを受けました。

陳はボールをバケツに入れ、マシューに向けて様々な角度から様々な速度で次々とボールを打ち、マシューにレシーブさせました。それもマシューが拾えるか、拾えないかというギリギリのところに。これによりマシューのスピード、予測能力、敏捷性、タイミングの限界は徐々に向上しました。その能力をより向上させるため、卓球台も1.5倍に広げ、さらに素早い動きを求めました。マシューは5年間で飛躍的に能力が向上し世界ランキングも上昇しました。

さらにあらゆるボールに対して全く同じ打ち方を習得するように指示を受け、2ヶ月の間それに取り組みました。これはフィードバックの仕組みをつくることになり、彼の調子が悪くなった時にフォアハンドの打ち方を見ればどこが悪かったのか、直ちにわかるようになりました。
 

NBAのセンター ジョン・アミーチは、ペンシルバニア州立大学時代、相手チームを6人にして常に2人からマークされて練習しました。ブラジルのサッカー界はフットサル出身の選手が多く在籍します。フットサルはコートが狭く、人が密集するため、素早い判断、完璧なパス、ボールコントロールが要求されます。しかも1試合でボールに触れる回数が通常のサッカーよりも多いので、練習量も自然と多くなります。このように、スポーツでの目的性訓練、つまりコンフォートゾーンから抜け出すための限界的練習は、様々な状況に合わせた方法があります。
 

才能に頼るとダメになる

1978年スタンフォード大学教授のキャロル・ドゥエックは、小学校5,6年生150人に知性に対するアンケートを行い、「知性は遺伝子に備わっている」と考える子供と「知性は努力が変えられる」と考える子供に分けました。彼らにいくつかの問題を出したところ、最初のグループは難しい問題になると「僕はあまり利口じゃないから」とそれまではうまく解けていたのにも関わらず、そこで投げ出してしまいました。

後のグループは失敗を何のせいにもせず、失敗したことに焦点を合わせずに問題を解き続けました。その結果、より高度なやり方で問題にチャレンジし、数人は問題を解くことができました。この調査では、問題に取り組む姿勢が大きな差となりました。
 

1997年マッキンゼーは「ウォー・フォー・タレント(人材育成競争)」という報告書を発表しました。ビジネスで成功と失敗を分けるのは専門分野の知識より論理的思考能力であること、これは元々備わっていた才能によることを解説しました。

テキサス州の総合エネルギー取引会社エンロンは、マッキンゼーに多額のコンサルタントフィーを払い、マッキンゼーの才能信仰にのめり込んでいきました。こうしてエンロンは最高のビジネススクールから才能のある人材を集め大きな権限を持たせました。この才能を崇拝する文化により、社員は常に非凡な才能があるように振舞わなければならず、才能のない人間に見られることを非常に恐れました。その結果、失敗は隠されてしまい、巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て、2001年12月に破綻しました。
 

アクティブ・ラーニングの可能性

3人の研究者 ルイス・デロリエ、エレン・シェル―、カール・ワイマンは、ブリティッシュ・コロンビア大学の1年生の物理学の授業で、従来の講義形式とアクティブ・ラーニングとを比較しました。
 

図6 アクティブ・ラーニング

図6 アクティブ・ラーニング


 

アクティブ・ラーニングのクラスでは、限界的練習を応用し、より積極的に学生に考えさせました。授業前に学生に教科書の課題部分を読ませ、パソコンで小テストを行います。小テストのレベルは講義よりやや高くし、学生に考えさせる部分もありました。授業では小グループ単位で問題について討議し、教師が学生の質問に答え、議論に耳を傾けました。

その後、理解度を測るため小テストを行ったところ、伝統的な授業を受けた学生の正答率が41%に対し、アクティブ・ラーニングのクラスの正答率は74%でした。しかもアクティブ・ラーニングを担当したのは指導経験のない大学院生とポスドク生でした。
 

社会人はどんどんダメになる

プロスポーツや将棋、音楽など個人の能力が重要な職業では、限界的練習により技術を高めることが重視されています。
しかし、なぜセールスや企画、開発、製造などのビジネスでは、各々の能力を高めようしないのでしょうか。
これまでは、以下の誤解が存在しました。

  • 能力は遺伝的特徴(才能)により決まる
  • 仕事の出来る人はできる、できない人は訓練してもできないのか?

  • 継続すれば徐々に上達する
  •  目的を持って仕事をしなければ、むしろ低下するのではないか?

  • 努力すれば上達する
  •  「営業は頑張れば数字を上げられる」、いや正しく努力しなければ数字は上がらないのではないか?
     誰か「正しい努力」を教えているのか?

 

特に社歴の長い社員は、それまで経験した実務から離れ、管理業務に就くことが多くあります。管理業務に必要なスキルは何か、そのスキルを身につけるためにはどのような訓練が必要か、必要なスキルが身に就いたかどうか、どのように判断するのか、これらを備えるための適切な仕組みがなければ、優秀な作業者が管理能力のないまま管理者となり、組織全体の能力が低下してしまいます。
 

こういった問題には、研修やセミナーは効果がありません。

トロント大学のディブ・デービスは、医師の技能を改善するための研修、セミナー、シンポジウム、医療ツアーなどを調査しました。その結果、最も効果が高かったのはロールプレイ、ディスカッションなどインタラクティブな訓練で、講義中心の研修は最も効果が低いと分かりました。
 

  1. 対策例 社内
  2. 社内での会議で報告する報告者のプレゼンに対し、全員がフィードバックを行うようにします。報告者のプレゼンを改善するなど、仕事をしながら学習することができます。

  3. 対策例 トップガン流練習法
  4. 実際のドッグファイトで遭遇しそうな状況を模したプログラムをつくり、その中で何度も練習し、フィードバックを受けられるようにします。

  5. マネジャーのトップガン
  6. 実際にマネジャーが遭遇する様々な問題、課題を模したプログラムをつくり、研修で問題や課題を解決し、模擬指導します。そして、そのフィードバックを受けられるようにします。

  7. セールスのトップガン

研修で自社のセールスに必要な知識、手法を学習します。その後、実際に教官と一緒に顧客にセールスに行き、フィードバックを受けられるようにします。
 

自らをコンフォートゾーンの外に置く限界的練習は、精神的に大変きついため、時間を短くし、レベルは徐々に上げていくようにします。そうすることでだんだんときつさが和らいで、練習を完遂できるようになります。

自分がレベルアップしていくことが分かるようにするのも、練習を継続させるためには非常に効果的です。レベルアップしていることが分かれば、モチベーションが高くなります。仕事のスキルがどれだけ上がったか、限界的練習を努力した結果どうなったか等、誰でも分かる仕組みが必要です。
 

湧いてくる疑問

ここまでの議論には5つの異なった性質の違いがあります。

  1. 種としての人間と、他の動物の違い(共通点) 
    例 チンパンジーや他の動物との比較

  2. 集団
  3. 人の集団とその構成員として、他の集団との違い
    例 民族、国家、部族、時代による文化や価値観の違い

  4. 生物としての個人の違い1
  5. 身長、体重など身体的な特徴、適応性障害、自閉症、サヴァン症候群など

  6. 生物としての個人の違い2
  7. ジェンダー、セクシュアリティ、パーソナリティ、サイコパスなど心の問題

  8. 人として後天的に習得するもの

価値観、忍耐強さ、前向きさ、実直さ、誠実さなど
 

このうちで①~④は人が変えようと思っても変えられない性質です。②は変えることは可能ですが、すぐに個人で変えられるものではありません。

しかし⑤は本人次第で変えられます。

個人が成功するために必要な能力は、③④なのか、⑤なのか、それによりその後の行動は大きく変わります。
また企業・組織に必要な能力も、③④なのか、⑤なのか、それにより企業・組織の人材開発も全く変わってきます。そして⑤であるとすれば、その開発はスポーツなどに比べれば、ほとんどされていないと言えるのではないでしょうか。
 

参考文献

「子育ての大誤解」 ジュディス・リッチ・ハリス 著 早川書房
「人間の本性を考える (上・中・下)」スティーブン・ピンカー 著 日本放送出版協会
「天才を考察する」 デイヴィッド・シェンク 著 早川書房
「非才」 マシュー・サイド 著 柏書房
「頭のでき」 リチャード・E・ニスベット 著 ダイヤモンド社
「超一流になるのは才能か努力か?」 アンダース・エリクソン 著 文芸春秋
「なぜ人類のIQは上がり続けているのか?」ジェームズ・R・フリン著 太田出版

 

 

経営コラム ものづくりの未来と経営

人工知能、フィンテック、5G、技術の進歩は加速しています。また先進国の少子高齢化、格差の拡大と資源争奪など、私たちを取り巻く社会も変化しています。そのような中

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